初めて「イジメ」を経験したのは中学三年生の時である。毎日、「キモイ。ウザイ、汚い、死ね」と悪口雑言の嵐だった。また、「いつも同じパンツ履いてる」、「髪に十円玉くらいのフケがついてる」と悪質なデマを流され、誹謗中傷に悩む日々を送っていた。
怒りや憎しみも当然あったが、それよりも私は恥ずかしくて死にそうだった。「生きているだけで汚い」と言われているような気がして、「価値もクソもお前には無いんだ」と嘲笑われているような気がして。
プライドも自信も木っ端微塵、これ以上無い屈辱の闇に堕とされた私は、心の中で「ヤツラ」をズタズタに殺しまくる日々を過ごしていた。私を見て「オエッ」と嘔吐くヤツラをゲロまみれにし、底無しの血の海へと沈めていたのである。
なけなしのプライドを捨て、恥を忍んで友人、親、教師に相談をする。慰めてほしいのではなく、どうすればいいのか一緒に考えてほしかったのだ。しかし、彼女達の口から出る単語は「ドンマイ」や「ほっとけ」だけだった。私は馬鹿だがコレくらいはわかる。
悩んでいる人が本当に大切ならば、こんな無神経なセリフは絶対に吐かない。これは、「とりあえず慰めておこう」という安易な魂胆がバレバレの冷酷無情な言葉である。そんな適当な励ましで立ち直れるほど私は単細胞ではないし、「私は関係ない」ってツラを見逃せるほど優しくもないしズルくもない。
まぁ、早い話、私は彼女達にとって「大切な人」に値しなかったというわけである。どーでもいい存在なのだ。暫くすると、ほら、聞こえてくる、「馨木の話、もう聞きたくないんだよね」という彼女達の本音が。もはや味方は一人もいない、誰一人信用できない。
友達ヅラした偽善者も、世間体ばかり気にする親も教師も、知らん顔決めこむ傍観者も全てが憎い。みんな死ね。私はふと思う、
(なんで生まれて来たんだろう・・・)
ある夜、窓から覗く月に照らされながら、私は自分の部屋でカッターを握り締める。もう、こんな毎日に辟易していたのだ。学校に行けば汚物扱い、誰も話なんて聞いちゃくれないし、陰口は聞こえてくるし、「今日で楽になろう」、そう決意したのである。
「静脈じゃなくて動脈」とブツブツ独り言を唱えながら左手首にカッターの刃を当てる。「一瞬・・・一瞬だから・・・」と呟きギュッと目を瞑る。ようやく意を決し「イこう!」と右手に力を入れた、その時である。私は愕然とした。右手が震えているのだ。
痙攣のような身震いに恐怖感が一気に増す。ハアハア、と上がる息をごまかすようにガタガタ怯える体を摩る。「悔しい・・・」という本音と共に涙がこぼれる。
情けなくて、格好悪くて、悔しくて死にたかった。でも、死ねないのだ。「死」そのものが別に恐いんじゃない、私は、「死ぬ時の痛み」が恐かったのだ。
どうすることもできない、どうしていいかわからない。プツン、と頭の中でなにかがキレる。私は、泣きじゃくりながらカッターを振り回し、次々と部屋中のモノを切り刻んでいった。その時、ある想いが過ったのだ。「どーせ生きるのならば絶対に幸せな未来を手に入れてやる」
満月の夜、声にならない声で叫んだ言葉は孤独な鬨となって今も私の胸に轟いている。
「負けてたまるかぁっ・・・!」
次の日から、私は別人のように変わった。なにを言われても微動だにしなくなり、気にする素振りも見せない。ことごとく無視。わざと私にぶつかり吹っ飛ばし、「リアクションでけー」とヤツラが笑おうと、「うん、いいから退いてくれる?」と、つらっと返した。
教室はシーンとなり次第にどよめく。あからさまにたじろぐヤツラを見て私は心の中でニヤニヤした。この時点で心はだいぶひん曲がっている。ウゼぇ、と吐き捨て去って行くヤツラを傍観者達がヒソヒソと笑っていた。
私はヤツラを心の中で殺すことは、もう、しなくなっていた。殺すに値しない存在だと気づいたからだ。偽善者達と一緒にいることも、もう辞めた。こんな非情な奴等と一緒にいるくらいなら一人でいたほうがいい。
全てを失いヒトリボッチだったが、「孤独」だとは思わなかった。「絶対に今より幸せな未来が待っている」と信じていたから。その幸せな未来のために、私は「現在」を捨てたのである。
淡々と流れる不気味な月日は春を迎え、三月十五日、卒業式。地獄の日々、遂に閉幕の時。卒業生一同の合唱が私の慰労と共に浄化されてゆく。涙は一滴もこぼれず、滲みさえもしない。私には惜しむモノなんて、なにひとつ無いのだから。
(あぁ、なんか頑張ったなぁ・・・)
今まで味わったことのない達成感に浸りながら私は力強く歌った。
やっと解放される・・・少しだけ尾崎豊の十五の夜を想い出す。
心を殺し続けた約一年間、私は一度も学校を休まなかった。
今、「死にたい」と涙をこぼす人達を、なんて慰めてあげたらいいのか、どう励ましてあげればいいのか、正直、私にもわからない。偉そうに「生きろ」なんて言えやしないし。でも、「とりあえず生きてくれないか」と、それだけは願う。
一日中、寝てたっていい、目を瞑っているだけでもいい、呼吸をしているだけでもいいから、とりあえず生きてほしい。
逃げてもいい、隠れてもいい、部屋中荒らして、大人に反発しまくってもいいから、ちゃんと戦ってほしい。
憎んでもいい、恨んでもいい、呪ってもいい、心の中でヤツラをズタズタに引き裂き、グチャグチャに潰し、殺しまくってもいいから、絶対に死なないでほしい。そして、散々流した涙に感謝し、弔ったならば、もう泣かないでほしいのだ。
自分のことを「臆怯い」と嘲笑うヤツラなんかのために流していい涙など、この世に存在してはいけない。臆怯いなりに必死で生きる人間を侮辱する大馬鹿者達に屈したくないのならば、軽々しく泣くんじゃない。
「死にたい」と喚いたっていい、「殺してやる」と叫んだっていい、ぶっ壊れたって、ぶっ壊したっていいから、ほんの少しでも笑っていてほしい。嘲笑われたって笑っていてほしい、ムリヤリでも笑っていてほしい。「誰よりも強くなれるチャンスだ」と。
「キモイ、ウザイ、汚い、死ね・・・etc」
ヤツラは、決して人に言うべきではない罵詈雑言を吐き、ケラケラと笑い合いながらでしか互いの信頼関係を築けないクダラナイ人間である。自分よりも強い、と踏んだ奴につきまとい、調子良く人を罵倒するしか能がない哀れな寄生虫だろう。
ヒトリになった途端、自分よりも弱い、と見た人達に媚びを売り、ヒトリじゃない自分に安心することしかできないプライドの破片もない害虫である。陰で自分も言われていることすら気づかずに謎の自信を掲げ、無様な自分を強いと勘違いするタダの弱虫だ。
気づいたら最後、嘘のように自信を喪失し、自分は棚に上げ見事に被害者ぶるミットモナイ愚物である。世のイジメっ子とは、そーゆう痴れ者の集団なのだ。
私はコイツラに聞きたい。
毎日、ヒトリでも懸命に生きている人間のどこが汚い?どこがキモイ?
面倒くさい悪口や嫌がらせがコレ以上エスカレートしないように大人しくしているだけの人間のどこがウザイ?どこがヤバイ?
「見た目」とか「雰囲気」なんて言ったら本気でバカだぞ。それならお前等も、たいがいヤバイ。自称イケてるグループに属しているだけの調子乗ったパラサイトなんか誰も関わりたくないし、標的にされたくないから、みな黙っているだけである。
こんなクズ共が発する「死ね」という言葉で本当に死のうとするのだけは、やめてほしい。「死ね」と言われる筋合いもなければ、そこには権利も理由もないのだ。意義すら失われた、その一言で人生を台無しにするなんて馬鹿げている。
「生きている価値が無い」とか「死んでも誰も泣かない」なんて、ありえない真実であり、その言葉自体が完全たる塵屑なのだ。
人を、そんな風に言うもんじゃない、と怒られるかもしれない。「イジメっ子だって人間だ、イジメっ子にも理由がある」と。どんな理由だよ、と鼻で笑ってやる。
イジメられている側からすれば、ヤツラは人間ではなく、ただの悪魔だ。人を汚物扱いして嘲笑い、ありもしない噂を流して騒ぎ、楽しいから馬鹿にする極悪人でしかない。ゲラゲラ嗤い合いながら平気で人に「死ね」と言える人間など、私は一切庇う気なんてないし、どんな理由があろうと絶対に許さない。
まず、イジメられている人の嘆きを聞け。
私はヤツラを心の中でドロドロのヘドロにし、生き返るたびに惨殺してきた殺人鬼である。そうでもしないと乗り越えられない日々を過ごしてきたのだ。たとえ、その乗り越え方が間違っていると言われようと、乗り越えた私が、今、ココにいる。
綺麗事ばかり並べる、どっかの偽善者よりは、よっぽど「イタミ」を理解しているつもりなのである。
毎日、「生」と「死」の狭間で戦っている彼等の気持ちを無視して「イジメはありません」だと?保身のための嘘は、もう、やめてくれ。面倒臭がるな。目の前の涙より醜い笑顔、殺されかけている命より我が校のイメージ、疑った自分を信じてくれ。
「ウチの子に限って?」噛みつく前に良く見て確かめろ、可愛い可愛い我が子の姿を。
大事なコトをなに一つわかっちゃいない偉そうなだけの大人の言葉など、このままじゃ誰も聞きやしない。ナメられて終わりだ。
人は、そんなに助けてはくれない。誰だって自分を守るために必死である。それでも「助けてあげたい」と想ってくれる人は必ずいて、その心に気づき、芽生えた愛情を糧として生きてゆけるのも人間なのだ。誰もが持っている、その心を確かめて翳してくれよ。
今、生きていることが辛いと思う。苦しくて、悲しくて、淋しくて、どこにこの絶望をぶつけたらいいかわからなくて藻掻いていると思う。死にたくて、死にたくなくて、生きたくて、生きたくなくて、死にきれなくて、生きてるけど、死んでる。
なにも言えないけれど、「今日、死ねなかった自分」を「正しい」と撫でてあげてほしい。日々、満身創痍で戦う、その勇ましい姿を恐がらずに抱きしめてあげてほしい。どうか、自分を殺さないで、捨てないで。
「強くなくていい」とか、「ありのままの自分でいい」とか、色々な思想を耳にするが、私は「強くなれ」と言いたい。
自分の意志をしっかり持ち、自分の言葉でハッキリ伝え、自分を信じ、自分を敬い、自分自身を守れる人間になってほしいのだ。堂々と風を切って歩く自分を、胸を張って「好きだ」と言える勇敢な人間になってほしい。
「弱い奴だ」とバカにされて泣き、人前では愛想笑いを振りまくような私が「ありのままの私」だったとしても、そんな自分で生きるなんて、私は、まっぴらごめんである。
私は、「自分が好きな自分」でいたい。弱い自分を隠してでも、たとえ、強がりだと貶されても。
心を殺すことでしか戦えなかった弱い私だが、「生きる」という選択をして良かったと思う。「死ぬ勇気」が持てなかった自分に、心の底から安心しているのだ。
だって、私は今、笑っているから。
もう、ヒトリボッチではないから。
「だから、あなたも頑張って」なんて、そんな無責任なことは死んでも言えないが、私が信じて来た、このツマラナイ言葉で誰かを救えるのならば、喜んで吠えさせて頂く。
「大嫌いな明日の向こうには、幸せな未来が待ってるゾ!」
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